気づけば年の瀬。そして気づけば東京マラソンが2ヶ月後に迫っている。
人生初の転職を経験した今年は本当に慌ただしく過ぎ去り、本のレビューを書くこともほとんどできませんでした。来年は働くペースを掴み、読書やレビューの習慣も取り戻していきたいと思っております。
ということで今年読んだ本の中からのレビューです。マラソン本番も近づいているということでランニング関連の本をば。
走る作家、村上春樹
本書は村上春樹によるランニングに関するエッセイです。
村上春樹は走る作家。そのことは知っていたのですが、この本を読んで認識を改めました。
村上春樹は「かなり」走る作家、でした。
- 最低年に1度はフルマラソンに出場しており10年以上前の執筆時点で23回の出場経験がある。
- 100㎞超の距離を踏破するウルトラマラソンへの出場・完走経験を持ち、トライアスロンもやる。
- 月に300㎞以上も走っているし、フルマラソンのタイムは3.5hを目安にしている。
いやはや。これは相当なランナーです。 市民ランナーとしてはかなり完成された部類に入るでしょう。 (私の基準はサブ4達成できたら市民ランナーとしては完成レベル。サブ3達成者は市民ランナーの次元を超えている)
そんな走る作家、村上春樹によるエッセイ。本人曰く、メモワール。
春樹ほどではないにせよ、10年以上ランニングの習慣を持っている一人の市民ランナーとして非常に楽しめました。 実は春樹作品はそれほど多く読んでいないのです(『ノルウェイの森』と『海辺のカフカ』という偏ったリスト)が、この人の書くエッセイはなかなか好きです。 以前読んだ『ポートレイト・イン・ジャズ』も面白かった。
この人は自分の好きなものへの没頭具合がすごいですよね。本人はただ好きなものを好きなように楽しんでいるだけなのでしょうけど。
「春樹が好きでない人でもこの本は好きという人が多い」と聞きました。
ランナーが読んでも楽しいですし、 走る舞台(そして「書く」舞台)として登場する世界のあちらこちらの様子も楽しいし、 作家の生活や考えていることを知る文章としても面白いし、 と春樹の小説に比べ読む人を選ばない作品なのは間違いないでしょう。
走っているとき人は何を考えているのか
走る習慣をまったく持たない人からよく聞かれる質問の一つに、 「走っているときに何を考えているの?」 というものがあります。
春樹もやはり同じようです。というか、私程度でもわりとよく聞かれるので、きっとものすごくたくさん質問されているのではないかと思う。
この質問に対する春樹の回答が、秀逸。多くのランナーが共感するのではないか。 3段落に渡ってあまりに共感できる文章が続いていて、どこを引用すべきか迷いますが、一部だけ。 この数段楽は同じことを少しずつ言い方を変えながら語っています。たぶんだけど、何度も同じ質問を受けて、そのたびに考え答える中でできあがってきた回答なのではないかと思う。
走っているときに頭に浮かぶ考えは、空の雲に似ている。いろんなかたちの、いろんな大きさの雲。それらはやってきて、過ぎ去っていく。でも空はあくまで空のままだ。雲はただの過客(ゲスト)に過ぎない。それは通り過ぎて消えていくものだ。そして空だけが残る。空とは、存在すると同時に存在しないものだ。実体であると同時に実体ではないものだ。僕らはそのような漠然とした容れ物の存在する様子を、ただあるがままに受け入れ、呑み込んでいくしかない。(P35)
すごく、よく分かる。
走っている時にはわりと色々なことを考えています。仕事のこととか、人間関係とか、趣味のことや、あるいは天気やその日の食事のことだったり。色んなことを考えるけど、その「いろいろ」は自分が意識して選んでいるわけではなく、まさしく雲のようにやってきて、過ぎ去っていきます。何か特定のことを考えたいと思っていても、いつのまにか流れていってしまうということもよく起こります。
ただ、それでいて走り終わった後は頭がとてもすっきりする。 そのすっきりとした感じが欲しくて走っているというのも走ることの大きな理由の一つです。
結局のところマラソンは、苦しい。
私はこれまでに1度フルマラソンの完走経験があり、人生2度目のフルマラソンとして2017年の東京マラソンに挑戦します。いろいろ理由があって挑戦することになったのですが(【東京マラソンチャリティクラウドファンディングに挑戦】【一人前の公益組織コンサルタントを目指して】 - 朝ぼらけタイガー)、正直最初のフルマラソンが終わった時点では「もう2度と走りたくない」と考えていました。 ものすごく、苦しかったのです。そして走り終わった後は膝がボロボロでした。
毎年フルマラソンを走るようなランナーともなると、あんなに苦しくはないんだろうなと期待を込めて読み進めていったのですが、どうやらその期待はハズレのようです。
前回の私のレースで苦しかったのは、32、3㎞地点ぐらいからの最後の10㎞ほど。後から確認すると走る速度はほとんど変わっていなかったのですが、とにかく苦しかった。全身が走るのを止めたがって悲鳴を上げているような状態だったのですが、何度走っても、どれだけ練習しても、一緒らしい。
やれやれ、もうこれ以上走らなくていいんだ。(P99)
最後に思うのはやっぱりこれなのか、と。
人間の身体の構造上30㎞程度までが健康的に走れる限界なんじゃないかと思う。
結局のところ、苦しい。
それでも走るのをやめようとは思わないんですよね。
でも「苦しい」というのは、こういうスポーツにとっては前提条件みたいなものである。もし苦痛というものがそこに関与しなかったら、いったい誰がわざわざトライアスロンやらフル・マラソンなんていう、手間と時間のかかるスポーツに挑むだろう?苦しいからこそ、その苦しさを通過していくことをあえて求めるからこそ、自分が生きているという確かな実感を、少なくともその一端を、僕らはその過程に見いだすことができるのだ。生きることのクオリティーは、成績や数字や順位といった固定的なものにではなく、行為そのものの中に流動的に内包されているのだという認識に(うまくいけばということだが)たどり着くこともできる。(P251)
たぶん、そういうことなんだろうと思う。
「走り始める理由」と「走り続ける理由」
なんで走るのか。とくにフルマラソンなんて思い切り苦しいのに。理由は人によってさまざまあるのだろうけど、ざっくりといってしまえば「楽しいから」の一言に集約されるのではないかと思う。
そう、マラソン・レースは楽しんでこそ意味があるのだ。楽しくなれけば、どうして何万人もの人が42キロ・レースを走ったりするだろう。(P197)
苦しいけれど、楽しい。 苦しさが楽しいわけではなく、苦しさもあるけれど楽しい、ということ。
「楽しさ」という単純化された感情以外は人によってさまざまでしょう。
さまざまな走る理由を考えるとき、多くの人の場合「走り始める理由」と「走り続ける理由」は別々ではないかと思う。
春樹の場合は、専業小説家になったときの体調の維持のためのスポーツとして仲間や道具の要らないマラソンは都合が良かった、というのが走り始めた理由であり、走り続けるのは、小説家として必要なものを走ることから学んだり、走ることによる「空白の獲得」や「生きているという実感」を得るためということです。
私の場合高1の終わりで運動部を止めギター部に転部したのを機に、自分で運動をする習慣を続けねばと思い一人で手軽にできることとして選んだのが走るでした。それに加えて、クソ真面目に育った高1の自分にとって「夜の街に一人で」ということ自体が楽しかった。例えそれが遊びでなくて走ることだとしても。その後走り続けているのは、運動のためというのももちろんあるけれど、それ以上に「空白の獲得」や「生きているという実感」という部分が大きい。
思うに、走り初める理由は本当に人によりさまざまだけど、その先走り続けている人というのはある程度似た感覚を共有し、それを理由に走っているのではないかと、この本を読んで春樹の描写するいろいろな感覚に強く共感しながら思いました。
そのうちまた読み返したい本です。
以上。 久しぶりに書いたらなんだか長くなりました。 レビューを書く感覚も少しずつ取り戻していきたいですね。 ではまた。